常時風呂井戸事件等をご覧になってHaranoTimesさんが思い出されたこれらの事件…確かに今も引きずっていて、パヨは利用している

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今回のHaranoTimesさんの動画を拝見して、何でこれ?と思いましたが、
その1、その2と2回分もある長編という事で、
お話の持って行き方も興味を引きましたし、聴きごたえがありました。

屋上にいる韓国人 / Roof Koreans その1

Harano Times 2021/05/03



皆さん、こんにちは。
1991年3月3日の朝、ロサンゼルス警察のパトカーのモニター画面で、
ある車が115マイル、つまり184km/hの超高速で疾走していました。
でも、その部分の道路の制限速度は僅か65マイルだったんですね。

もっと悪い事に、その車の運転手である若い黒人、ロドニーキングは
刑務所から仮釈放されたばかりの囚人でした。
つまり、彼は未だ、刑期前だったんですね。

彼はその前に何度も投獄された経験があって、
最後は韓国人が開いた店を強盗した事で2年間の禁錮刑を
宣告されていました。

パトカーに乗っていた女性警官は直ぐにサイレンを鳴らし、
追いかけながら、相手に直ぐに立ち止まる様に指示をしました。

しかし酔っぱらっていたロドニーキングは
その警告を完全に無視して、
逆に酔っ払いの勢いで逃げ回りました。

勿論この様な飲酒運転は社会の公共安全にとって
深刻な問題になるので、
警察は急いで数十台のパトカーとヘリコプターを派遣し、
相当苦労して、遂に彼を小さな道に追い込む事が出来ました。

道のわりには大型トラックがあって、
正面を完全に塞いでくれました。
絶望的になったロドニーキングは遂に車から降りてきました。

しかし彼は、相手が女性警官である事に気付いた後に、
彼はその女性警官に対して卑猥な行動をしました。
女性警官は銃を抜いて彼に近づこうとしましたが、
近くの数名の男性警察に止められました。

ロドニーキングは数名の男性警官が近づいて来たのを見て、
降伏するどころか、酒の勢いで警察に飛び掛かりました。

二人の警察が彼を抑えようとしましたが、
逆に彼等は強いロドニーキングに倒されました。
その後、その内の1人の男性警察が
電気衝撃銃を使おうとしましたが、
それが故障で全く動かなかったんですね。

パニックの中で、数名の警察が警棒を振り回して、
ロドニーを叩きました。
数十回叩いた後、ロドニーは傷だらけの顔をあげて、
警察に許してもらう様に願いました。

ロドニーが屈服したのを見て、
警察は彼に手錠を掛けて、救急車を呼んで、
彼を病院に運びました。

ロドニーキングが抵抗して、
最終的に警察に逮捕された全過程は
隣のアパートに住んでいる市民に撮影されて、
その動画はロサンゼルスの地元のテレビ局に渡されました。

当時倒産寸前だったテレビ局がその動画を見て、
それは宝物だと思いました。
それで、テレビ局はその動画を流す時に、
その動画を意図的に編集しました。

彼等は警察がロドニーキングを殴っているシーンだけを流して、
ロドニーキングが警察に飛び掛かったシーンを流さなかったんです。

勿論、それは大騒ぎを起こしました。
その後、アメリカの大手テレビ局が次から次へと、
その動画を流したので、
倒産寸前だったロサンゼルスの地方テレビ局が
ボロ儲けする事が出来ました。

そのテレビ局の編集によって、
その問題の焦点が変わってしまいました。
元々飲酒運転していた仮釈放犯罪者が逮捕を拒否した為、
警察に抑えられ、逮捕されたんですね。

でも、編集された動画が流された後、
それは白人の警察が
無実の黒人の若者を苛めた事になってしまいました。
これは黒人の大衆の怒りを引き起こしてしまいました。

テレビ局が放送したのは、意図的に編集された動画でしたが、
法定の陪審員が見たのは、元々の動画でした。

それで勿論、黒人の大衆と、陪審員との間で、
その事件に関する認識に違いがあったんですね。

更に、最初の裁判で、陪審員の多くが白人だったので、
大衆は納得がいかなかったんですね。

しかし、最後の結果として、
この事件は1年後の1992年4月29日に最終判決がおりました。
警察は無罪になりました。
この判決の結果は、爆弾に火をつける事になりました。

では、この話のシーンを一旦変えます。その裁判の結果が出る1年前の1991年に戻りましょう。

1991年3月ロドニーキングは飲酒運転でロサンゼルスの警察によって逮捕されました。同時にそこからそう遠くないロサンゼルスのKorea Townで、殺人事件が起きました。

1953年朝鮮戦争が終わった後、戦争に参加した韓国の兵士を報いる為に、アメリカ政府は彼等に市民権を与えました。その結果引退した多くの韓国人兵士はアメリカに移住しました。

その後、彼等の親戚や友人も、次から次とアメリカにやって来ました。多くの日本人や中国人の様に、韓国人の移民も最初は何も無いところから、アメリカでの生活を始めて、勤勉にコツコツと努力して、30年間で徐々にある程度の富を蓄積して、準中流階層の生活を送れる様になったんですね。

韓国人移民が最初にロサンゼルスに来た時には、彼等には良い家を買う余裕が無く、安全性の低い家賃が安い地域で小さな店を開く事によって、生計を立てる事が多かったんです。

ご存知かもしれませんが、ロサンゼルスでは黒人とメキシコ人が住む地域は最も安全性の低い地域になっていました。過去30年間で韓国系のアメリカ人が段々集まってきたので、黒人のエリアとメキシコ人のエリアの間にKorea Townが形成される様になりました。

Korea Townは黒人エリアとメキシコ人エリアに挟まれている。これは今回の1つの重要なポイントになります。

1991年3月のある日、ロドニーキングが飲酒運転の問題を起こした、約2週間後に16歳の黒人の女の子、ナターシャが韓国人女性スンさんが開いた店に行きました。このナターシャは16歳の女の子だったんですが、身体がかなり大きく、スンさんのほぼ2倍位あったんですね。

ナターシャはオレンジジュースのボトルを持って、会計せずに出て行こうとしましたが、スンさんがそれを監視カメラで見てしまったので、彼女を止めようとして駆け付けました。

その場で捕まえられた女の子は、謝罪をせずに逆にスンさんを殴って倒しました。スンさんが法廷に行った時は、目元にまだ痣が残っていました。

それは後の話になりますので、事件の現場に戻りますと、倒されたスンさんが起き上がって、銃でナターシャを撃ちました。ナターシャが倒れて、その後に死亡しました。

このスンさんとナターシャの対立は過去の30年間、このKorea Townの均衡の黒人のグループと韓国人のグループの対立の典型的な例でした。

海外からやって来て、一生懸命働いて、少しずつお金持ちになった韓国人に対して、その近くに住んでいる黒人のグループは不満を感じていました。

それで黒人と韓国人との対立が段々深刻化してきました。韓国人が開いた店の中で、万引きはよくある事でしたし、もっと酷い時は、強盗したりする事もありました。

当時、沢山の黒人は韓国人がやってきて、彼等の富を奪った。だから韓国人が開いた店で万引きしたり、強盗したりする事は、当たり前と思う人も居たんですね。又、数年後のインタビューでも、同じ事を考えていた人もいました。

でも、彼等はそれ程治安が悪い所で、もし韓国人の店が無かったら、現地の黒人やメキシコ人が便利に日用品を買う事が出来なかったと考える事もなかったんですね。

又、更に言うと、自分たちも韓国人と同じ様に努力して、自分の生活を改善する事を考える人も少なかったです。

少し厳しい言い方にもなりますが、自分で選んだ道に、自分で責任を持つ必要があります。努力をしない事を選んだなら、逆に努力をして生活を改善した人を憎しんではいけないんですね。

韓国系アメリカ人の最初のスタート時点は非常に低く、来た時は英語を知らなかったんです。しかし30年間で彼等は自立して、尊厳のある生活を送れる様になりました。

1年後の1992年4月、裁判官はスンさんの案件に対して、判決を下しました。裁判を担当していた女性裁判官はスンさんは社会に害を及ばさず、その様な人を刑務所に入れる事には意味がないと判断して、彼女に執行猶予5年間の処罰、罰金と地域社会での労働が課されました。

1992年4月にロサンゼルスでは2つの判決がありました。ロドニーキングを強制的に逮捕した4人の警察は無罪になりました。

2番目はナターシャを撃ち返し、死亡させてしまった韓国人のスンさんに対して、執行猶予の判決ですね。

明らかに、この2つの事件の間には繋がりが無かったです。ロドニーキングを逮捕した警察は公権力の代表でした。彼等は国家と州の意志を代表されるので、議論されるべきは、公権力が濫用されたかどうかの問題ですね。

反撃を仕掛けた韓国人のスンさんは、個人の権利を代表していました。個人の財産、もっと言うと、個人の安全が相手に侵害された時、どの程度の反撃が合理的だったかが問題でした。

この2つの事には関係が無かったんですが、メディアは意図的にそれらを纏めて、繰り返し放送しました。

それで私たちが今でもよく見る事が起きました。最初は有名な黒人歌手が韓国人を攻撃して奪う様に黒人を煽る歌をリリースしました。この曲はロサンゼルスの黒人コミュニティの中で大人気を得ました。

韓国系アメリカ人は、それらの黒人にLittle Chinese小さな中国人と呼ばれる様になったんですね。その状況が続いて、遂にメディアが見たい暴動が始まったんですね。

1992年の4月29日ロサンゼルスでの暴動は4名の警察が無罪判決を受けてから僅か2時間後に始まりました。

暴動が始まった時、たまたま暴動が起きた所を通りかかった白人のトラック運転手は数名の暴徒によって殴られ、死にそうになりました。

その理由は彼が白人だったからです。暴動が大きくなって、ロサンゼルスの南部は完全に混乱に陥りました。

暴動は元々警察に向けられていましたが、理解しにくいのは、丁度1日後の4月30日ロサンゼルスの最大の2つの黒人ギャング組織が今迄のお互いの問題を捨てて協力する事を発表し、Korea Townを略奪する事を決めました。

彼等は「小さな中国人は彼等を尊重していない。だから小さな中国人に黒い拳を味わってもらいたい。」と言いました。

4月30日の朝、Korea Townは荒れました。暴徒は彼等を殴り、略奪しました。黒人の暴徒は黒人エリアから攻撃して、メキシコ人の暴徒はその状況を利用して、メキシコ人のエリアから入って略奪を始めました。

Korea Townはその間に挟まれて、彼等に逃げ間もなかったんですね。更に暴徒は十数件の銃砲店を略奪したので、彼等は銃で装備され、破壊し、略奪し、全てを燃え尽くすつもりでした。

絶望した韓国人たちは、パニックになって、警察の支援を要請する為に必死に電話を掛けましたが、しかしロサンゼルスの警察はあんまり動かなかったんです。

警察は彼等に、その危険地域から離れる様に、アドバイスをしました。店のオーナーたちは、彼等が一生懸命努力して貯えた資産が破壊されるのを見て、何もする事が出来ず、泣くしかなかったんですね。

現場の警察は何をしているかと言うと、彼等は武器で装備された暴徒が到着するのを見て、直ぐに逃げました。

アメリカではエリアによって、警察の警備の力が違う事が多いです。税金を多く治めている地域では警察も多いんですが、貧しい地域では、元々犯罪率が高いし、税金をあんまり納める事が出来ないので、警察の配置も少なくなって、悪循環に陥りやすいですね。

酷い話ですが、これは事実です。当時のKorea Townは正に治安の良く無い地域でした。その危機で、二人の韓国人英雄が立ち上がりました。

屋上にいる韓国人 / Roof Koreans その2

Harano Times 2021/05/03



その危機で二人の韓国人英雄が立ち上がりました。1人は弁護士のキム、もう1人は当時ロサンゼルスの韓国語ラジオ局だったラジオコリアの局長です。

4月30日の夕方、キム弁護士はラジオコリアの放送を聞いていました。ズッと悪いニュースが流れていました。暴徒の暴力と略奪で勤勉な韓国人家族が次から次へと全ての貯えを失くし、ズッと泣いていました。

誰が最初に百ヶ所の火をつけて、百の小さな中国人の家を燃やす事が出来るかを見る公で賭けをした二人の暴徒さえいました。キム弁護士もかなり動揺して、もう警察が信頼出来ないことに気付きましたので、彼は直ぐに全てのロサンゼルスのメディアに電話を掛けまくりました。

しかし、いつもマイノリティについて語っていたロサンゼルスのメディアは彼等の態度を変え、どのメディアも記者を送ろうとしなかったんです。

キム弁護士は事態の深刻さに気付いて、韓国語のラジオ局であるラジオコリアに車で行く事にしました。途中暴徒がいっぱい乗っているギャング・カーが次から次へとKorea Townに向って走っていましたが、でも、パトカーは無かったんです。

ラジオコリアに着いたキム弁護士は、やっと疲れ切っているチェイ局長に会いました。キム弁護士はKorea Townの住民の中で訓練を受けた、武装されている退役軍人が多いので、我々は完全に自分を守る事が出来ると言いました。

確かに当時の韓国人の銃の所有率が70%と言われていました。チェイ局長は直ぐに「キム弁護士、これは合法ですか?」と尋ねました。

キム弁護士はロサンゼルスの警察が繰り返し、彼等に危険地域から逃げる様に指示した事を知っていました。もし彼等が警察の指示に従わなければ問題になる可能性はあります。

でも、これ以上躊躇して、我慢出来る場合ではなかったんです。キム弁護士は弁護士の責任を果たす事を選びました。彼は、「私は弁護士。アメリカの法律では、この場合、私たちは自分自身を守り、自分の安全を守る権利がある」と言いました。

この様にして、ラジオコリアは韓国人の司令部になりました。ラジオ放送でチェイ局長とキム弁護士は韓国系アメリカ人に警察の間違えた指示に従わず、家を捨てない様に。全ての韓国系アメリカ人は手に銃を持って、自分の命と家族を守る為に立ち上がる様に呼び掛けました。

自分の全ての資産を捨てる事を考えていた韓国人オーナーたちが立ち上がりました。逃げる事を考えていた韓国人の大学生も立ち上がりました。これ迄に既に逃げ始めた韓国人もチェイ局長とキム弁護士の言葉を聞いて、帰って来ました。

Korea Townは自分たちの家。自分の家すら守る事が出来なければ、何処へ行けば良いかと考える様になってきたんですね。Korea Townの住民たちが立ち上がり、戦争に行った事がある退役軍人が臨時指揮官になりました。

眼鏡を掛けていた大学生はライフルやピストルを手にとって、通りや屋上、ガラスの廃墟に立って、もう、諦めない事を決めました。

1人の若者は「私たちは黒人に対して憎しみが無い。しかし、彼等はこの様に駆け込んで、私たちを激しく攻撃した。私たちが反撃しなければならない。私たちは自分の命と財産を守らなければならない。私たちを助ける警察も警備員も居ない。私たちの手に銃しかない。」と言いました。

では、Korea Townの住民が彼等の家を保護している間、ロサンゼルスの警察は何をしたかと言うと、彼等は自分の家を守ろうとしている韓国人を逮捕する罪状を考えていました。

Korea Townの住民はズッと警察に連絡していましたが、チャンとした返事が無かったか、警察不足との返事しかなかったんですね。武装された暴徒が来た時、警察は直ぐに逃げました。

しかし不思議なのは、Korea Town の住民が自発的に家を守る為に行動し始めた後、ロサンゼルスの警察は突然足りる様になりました。

当時、ロサンゼルスの警察は2つの命令を出しました。
1.韓国の店主に家から離れる様に指示をしました。
2.店主が居ないと、誰もその店を武器で守ってはいけない。
という命令ですね。

何年も経った今でも、キム弁護士はインタビューで
「警察は自分の家を守っている私たちに警告した。店主が居ない場合、私たちはそれらの店を守る権利が無いと言われた。でも、オカシイ事に、店主に離れる様に指示したのは警察だ。警察はボランティアの銃を取り上げて、ボランティアを逮捕し追放した。しかし店を守る人が居らず、燃え尽くされていた。」と言ったんですね。

当時の左翼メディアとロサンゼルスの警察から見て、Korea Townは暴徒のガス抜き場だったかもしれません。しかしキム弁護士とチェイ局長は立ち上がりました。

放送を聞いた後、Korea Townの住民たちが団結しました。善良な人々が団結して、彼等は驚くべき戦闘力を手に入れました。韓国のラジオ局ラジオコリアは、リアルタイムで戦場の状況を放送する司令塔になりました。

韓国系の勇敢な若者たちは、決死隊を結成し、凶悪犯が居る所に駆け付けました。彼等は新聞で黒人とメキシコ人の暴徒を撃退し、家を武器で守ると公式な声明をも出しました。

その闘いで韓国系アメリカ人は1人の犠牲で40人以上の凶悪犯を殺しました。その1人の韓国人は、自分の店を守る時に犠牲になってしまいました。彼等は諦めず、彼等の家と彼等の財産を最後まで守りました。

小さな中国人に黒い拳を味わってもらうと叫んだ2つの黒人ギャンググループは組織化された韓国人に負けて散っていきました。結局いつも共謀だったギャングは道じゅうで銃を持ってパトロールしている韓国の住民と会うと、彼等の目を見る勇気すら無くなってきました。

Roof Korean 屋上に居る韓国人は韓国系アメリカ人の勇気の象徴となって、未だに語られる様になっています。しかし、それにも関わらず、Korea Townの損失は非常に大きかったんです。

1992年のロサンゼルス暴動によって、10億ドルの物的損害が発生し、Korea Townはその半分以上を占めていました。

何千もの家族、何十年もの蓄積が台無しになってしまいました。もし、当時、ロサンゼルスの警察がKorea Townの住民を妨害したり、逮捕したりするのではなく、最初から暴力を止めるか、彼等が自分の身を護る事を許可したなら、事態はそこまで深刻にならなかったかもしれません。

では、この悲劇を引き起こした悪意のあるメディアは何処にいたでしょうか。人種の間で混乱を引き起こしたメディアは最も必要とされる時、真実を報道する事を拒否しましたし、メディアをコントロールしているメディアのオーナーや上層部が住んでいるビバリーヒルズは最初から警察によって、厳重に警備されたから、暴動は起きなかったんです。

最終的に黒人とメキシコ人が起こした暴動で数十人が死亡し、数千人が逮捕されました。韓国系アメリカ人は大きな損失を被り、暴徒に襲われ、警察に逮捕されましたが、結局彼等は銃を持って、自分の尊厳と家を守って、誰1人も刑務所に行きませんでした。

銃で反撃したスンさんもそうです。最初の動画を撮影した人は、数ヶ月後に、徐々に冷静になったアメリカ人によって指摘される様になりました。彼が悪意を持って、情報を隠し、人種の対立を煽った主犯となりました。

彼は、2度離婚して、その動画を撮影したカメラでさえ、元妻に持って行かれまして、かなり悲惨な人生を送るようになりました。

しかし、そのビデオを故意に編集して、大きく宣伝したメディアのオーナーや上層部は十分な利益を得た後に、いつもの生活を送っていました。

1992年のロサンゼルス暴動の後、韓国系アメリカ人のアメリカンドリームはバラバラになってしまいました。彼等は自分たちがこの土地の本当の市民ではないと感じ始めました。

その前は、アメリカは韓国人と韓国系アメリカ人の夢の国でした。彼等はアメリカは公正で自由で平等な国である事を疑った事が無かったんですね。

もし、韓国の母親が娘がアメリカの市民権を持つ韓国人男性と結婚する事になると喜んでいました。

2020年、アメリカのフロイドの件で暴動が起きた後、Korea Townの銃砲店の売上は数十倍になりました。韓国人のお客さんや中国人のお客さんが外で行列を作る様になりました。

韓国の銃砲店のオーナーは全てのお客さんがお気に入りの銃を購入出来る迄、営業時間を延長しました。そして、今の韓国人の母親の間では、アメリカの男性と結婚する娘は昔程、喜ぶ話ではなくなってきているでしょう。

歴史の話は此処迄になります。今迄、アメリカで起きている事を見て、皆さんがご存知かもしれない、この話を皆さんに紹介したいと思いましたが、あんまり間に合わなくて、今になってしまいました。

この歴史を聞いて、今起きている事を思い出したかもしれません。歴史は繰り返す。この暴動が起きて、未だ30年も経っていないのに、又、同じ事が起きています。

当時と比べると、今起きている事は、それほど酷いとは言えないんですが、放置してしまうと、いつか同じ事が起きるかもしれません。

日本は銃社会ではないです。又、日本では、人種の間の対立も存在しないので、この様な酷い話は起きないんですが、でも、今回の件の中で、メディアの役割を考えると、メディアは人の注目を集める為に、この社会のダメージを与える事もあります。これは何処の国でも同じです。

今回の動画の説明欄に、当時の状況が分かる動画のリンクを貼っておきますので、是非ご覧下さい。(此処では以下に貼り付けておきます)

L.A. Burning: The Riots 25 Years Later - Gun Store Manager David Joo Looks Back
| A&E

Koreatown during the 1992 riots Rough Cuts
Roof Koreans Protecting their Property with Guns (LA Riots 1992)
Korean Businesses Targeted During LA Riots | NBC Nightly News
Rooftop Koreans: A Synthwave Tribute
K-Town '92: Reporters - L.A. Riots Documentary


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