「私は当時、何もなしで香港に来た。私が得た全ては、香港がくれたモノになる。だから自分の命で自由に恩返ししたい。」資産を凍結され1年2ヶ月の禁固刑を科されたジミー・ライ氏…共産主義の犠牲はあまりにも大

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この写真はBBCより拝借しました。

今日のHaranoTimesさんのお話は、涙なしには聞けません。
苦労して勝ち得たと思った自由がC〇Pの執拗な手口で奪われてしまいました。

香港メディアの巨人ジミー・ライは実刑を受け、
資産が凍結された、
国安法が香港の司法を本気で変えようとしている、
香港人が必死になって香港を守ろうとする
背後にある知られざる歴史

Harano Times 2021/05/17



皆さん、こんにちは。香港の裁判所は16日にワンメディア・グループの創始者である民主活動家ジミー・ライに対して、2つの無許可デモに参加したとして禁固刑1年2ヶ月を言い渡しました。

又、5月14日ジミー・ライの香港にある資産が凍結されました。それも国安法に基づいた判決になります。このジミー・ライは香港の最も大きなメディアの1つ、ワンメディア・グループの創始者になります。

彼が沢山の香港人と同じ様にC〇Pが香港で実施した国安法と闘ってきました。彼に関するニュースについて、皆さんも沢山見てきたと思いますが、では何故、彼がここまでやってC〇Pと対抗するか。その後ろにある歴史について、あんまり報道されていないです。今回はその背後にある知られざる歴史について皆さんに紹介します。

皆さんは足で投票するという言い方を聞いた事がありますか?

ベネズエラは嘗て南米で最も裕福な国でしたが、社会主義の道を歩んだ後に、2千万人の人口があるベネズエラから360万人が逃げる事を選び、平和時代に自分の足で投票する人数の記録を作りました。

社会主義の事について少しでも知っている人なら分かると思いますが、この様な事は多くに社会主義国家で起きた事になります。

東ドイツで人々は自分の命を危険に晒してベルリンの壁を越えていきました。キューバの人はボートでアメリカに逃げました。多くの北朝鮮の人は命を賭けて、北朝鮮から逃げる事を選びました。

無数の人が社会主義国家の政治の高圧と経済面の絶望から自由な国に行く事を選びました。

1950年代から1980年代の間で日本の隣にある中国という社会主義の国家でも、自由を求めて逃げる人が沢山居ました。その自由への道の出発点は皆さんが行った事があるかもしれない深圳です。

川を渡れば、皆さんが思う夢の楽園「香港」でした。今、中国人が香港に行くには、許可証が必要になります。昔は勿論、そうじゃなかったです。

実は中華民国の時、中国人が香港と台湾に行くには、許可証なんて要らなかったんですね。今は世界中で影響力を拡大しているC〇Pの当時のリーダー、周恩来や鄧小平等の人も何か風向きがオカシイと感じると、直ぐに香港に行っていました。

何故ならイギリスにはシッカリした法律があって、政治的な迫害がそこまで行けないからです。

C〇Pは政権を獲った直後に、朝鮮戦争に介入したので、国民党の残党を一掃するエネルギーが無かったので、国境を防ぐ事をしませんでした。

自分が追い出す余力が無いので、わざと逃げ道を作って、国民党の残党が本島から離れて香港に逃げる様にしたとも言われています。

1953年あんまりにも難民が多かったので、香港政府は難民問題が香港の経済に影響を与える事、社会問題を引き起こすことを懸念して、香港に逃げる道を封鎖し始めました。

他の国と同じ様に、中国の国民は自分が生活している状況と隣の香港の状況を比較して、どこで生活すると、人間らしい生活を送る事が出来るかを知ったので、香港に逃げる人が止まりませんでした。

だからC〇Pは人々が外の世界に触れない様にする為に、自らも封鎖を始めました。1957年10月、C〇Pは国境を封鎖する事を決めました。

逃げる国民を取り締まり、捕まった場合は、厳しく処罰して、場合によっては、その場で処刑する事もありました。

その後に、C〇Pは中国国内で何度も大きな政治キャンペーンを行って、人々はあんまりにも生活出来ない様になってきました。中国で政治キャンペーンが起きる度に、香港に脱出する波が生まれていました。

中国の国民が香港に逃げる事について、「大脱出」という本があります。その本の中で、その30年間で約250万人の中国人が命を危機に晒しながらも、国境を越えて、香港に逃げたと書いてあります。勿論、逃げる途中で、命を落としてしまった人も沢山居ました。

広東エリアに住んでいる人のマインドも、徐々に変わる様になってきました。

昔は香港に逃げる事は国から逃げて敵に降伏する反逆罪という認識から、家族全員が香港に逃げる事は光栄であるというマインドに変わってきました。

その時は一般の国民だけではなく、C〇Pの地方に居る警戒層(?)のリーダーたちも、一緒に香港に逃げる事もありましたし、村の全員が一気に逃げる事もありました。

中国の南にある広東省から大量の脱出者が居る事を聞いて、広西チワン族自治区からも逃亡者が出る様になってきました。この状況がC〇Pの上層部迄伝わって、彼等はこの事の重大性について、認識をしはじめました。

中国から香港に逃げる脱出のルートは、いくつかありますが、でも、最も行き易いルートは陸で繋がっている国境になりますので、そこに多くの兵士が居て、行き来する人の身分をシッカリと確認をしていました。

ですから行き易いルートは全員が行けるルートではなかったんです。あんまり兵士が見ていない所の川を渡る場合、運が良ければ、1時間以上で香港に行けますので、成功率が上がります。

勿論、自由には対価があります。香港と繋がる20キロに渡る海綿状では、毎日数百の死体が浮いていた時もありました。当時その死体を回収する人が居て、多い時は2百人を超えていました。

彼等は死体を回収して、人民公社に持って行って、少し報酬をもらっていました。

真っ暗な夜、川に飛び込んだ瞬間から、自分の運命がどうなるかは、全部神様に預ける事になります。

1962年の4月、全国12の省、又は自治区から多くの人が香港に行く流れが起きました。その中に高齢者、若者、子供が居て、全員、国境の近くにある山に集まって、国境を越えようとしました。多い時は1日4千人も居ました。

国境にある鉄の綱は直されたら破壊され、中国の国民が香港に逃げ始めました。その後、難民があまりにも多過ぎた為、香港政府は難民を再定住させる事を諦めましたので、香港の山に3万人を超える難民が集まる様になりました。

彼等は山から出れば警察に逮捕されるので、山から出る事を恐れていました。その期間中に香港のメディアが「人命が大事。人の命を救う事を最優先にすべき」と社説を出し始めました。

メディアが救援物資のセンターになって、香港の宗教団体、民間組織、メディア等が行動して、数万人が救援物資を集め、難民が集まっていた山に救援物資を届けました。

その後、香港政府は警察に強制退去の命令を出して、難民を中国に戻そうとしました。香港政府の計画としては、難民を収容キャンプに入れて、2食を食べた後に、トラックで大陸に送る事でした。

翌日、香港の収容キャンプの周辺に人が集まる様になりました。数万人の香港人が道路の両側に集まり、難民を送るトラックに食べ物を投げ込みました。

食べ物を投げている香港人が泣いていて、トラックで食べ物をもらっていた難民たちも泣いていました。突然、一部の香港人が道路で横になりました。何千人もの人が自分の体を使って、道路をブロックしました。

当時の香港の警察は、国民の体を下敷きにして、運転する事は有り得なかったんですね。それと同時に、多くの難民が車から飛び降りて逃げました。警察も象徴的に止めてみましたが、後追いをしませんでした。

香港人の助けを借りて、3万人の難民の半数以上が香港に逃げる事が出来て、香港の一員になりました。

その後、周恩来は脱出運動を知りました。彼は委員会を広東省に飛ばして、脱出運動を止める様に命令をし、1万人以上の軍人を集め、逃亡者を片付ける様に命令をしました。

1962年6月広東省のC〇Pが指示を出して、逃亡に関わった全ての省の役人と教師は公職から追放され、全ての党員は党から追放されるとルールを出しました。それはC〇Pが出した、大脱出に関わる最も明確な文書になります。

でも、この厳しい政策も人々を自分の足で投票する事を止める事が出来ませんでした。皆さんは鄧小平は中国の改革開放を始めた人という言い方を聞いた事があると思います。

でも実際は、鄧小平が改革開放を始めたというよりは、深圳経済特区の設立はその大脱出があったから、しょうがなく採用した対策だと言えます。

その深圳経済特区のスタートに関わった1人の重要人物が居ました。それは習近平のお父さん、習仲勲(シュウ チュウクン)。1978年10月、反革命のレッテルが貼られた習仲勲が刑務所から釈放されました。

彼は広東省党委員会の書記に就任して、南の国境を固める任務を受けました。当時はC〇Pにとって、広東省の密輸と逃亡の最悪の時期でした。

香港と中国大陸の経済のギャップが日々大きくなっていきましたので、国民が香港に逃げることを切に思っていました。習仲勲が就任した後、彼は広東省の保安軍に調査に行きました。

彼は人がもっとも逃げている地域のリーダーを集めて、状況を確認しました。調度、人が逃げている事で、プレッシャーを受けていたリーダーが、当時、釈放されたばかりの習仲勲に腹を割って話をしました。

その中で、共産党の政策を変えないと何も変わらない。誰もが逃げ出すだろうといった大胆な人も居ました。

習仲勲が調査を終えて戻る前に、「香港は非常に繁栄しており、私たちの側は、人気のない場所となっている。これは私たちの内部の問題であって、私たちと敵の間の問題ではない。景気が良くなれば、逃げる人も戻る」と言いました。

1年後に彼が調査に行った地域で、国境経済の発展に関する13の提案を作成しました。

その案では、外部と経済発展を始めるエリアを指定し、そこで野菜や魚を育てて、香港に販売して、経済を発展させる様にしました。

それで、国境周辺の国民の生活が少し改善される様になりました。習仲勲が北京に行って、深圳経済特区の設立について話合って、深圳経済特区の設立に繋がったんですね。

最初に指定したエリアは徐々に深圳に変わっていきます。特区って言うと、特別に聞こえますが、そこの政策の本質は何かというと、その政策の本質は政策がない―という事です。

人々が少しでも、自由を手に入れる事が出来れば自分の生活を向上させる方法を見つける事が出来ます。深圳特区が設立されてから、20年以上続いた脱出への動きが収まってきました。

香港からの脱出は世界史の視点で見ると、米ソ冷戦の一部になります。国際社会は深圳川を中国のベルリンの壁と呼んでいます。

香港への脱出に成功した人々は彼等自身の伝説と物語を残しましたが、脱出に失敗した人は、ただの統計の数字の一部になって、共産主義がこの世界に与えた苦しみの記録になりました。

トランプ大統領は「社会主義や共産主義を試した殆どの地域は苦しみ、腐敗に繋がります。」と言った事があります。

難民の流れを解決する為に広東省に居た習仲勲の息子、習近平は今、C〇Pの党首になりました。彼の父は香港に脱出する状況を少しでも改善しようと思って、厳しい規制を緩和しました。

勿論、それはC〇Pという組織を守る為に既成を緩和したと思いますが、でも、そのホンの少しだけの自由は、沢山の中国人が香港に逃げて、海で命を落とす可能性を下げました。

今のC〇Pは過去、本土の難民を優しく守ってくれた香港でさえ、簡単にコントロールしてしまう十分なパワーを得ました。

香港に脱出する最前線になる深圳も、今、中国本土で最も大きな都市の1つになりました。深圳の博物館で、その大脱出自体の事を香港での雇用として書き直して、今の香港の繁栄は、当時、中国から行った労働者に支えられたと説明をしています。

C〇Pには自分のショボい歴史を振り返る勇気がないから、嘘をつく事を選びました。彼等はこの嘘をつく事によって、当時にあった飢餓、人権迫害、そして兵士によって射殺された人々を、もうこの世の中から消してしまいました。

香港が未だイギリス領だった時に、中国C〇Pが香港のイメージを悪くする為に、宣伝を行いました。

その宣伝の中で、香港はこの世界中の最も混乱している都市で、至る所にマフィアが居て、最大の麻薬の製造所と、人身売買の拠点。この世界中で最も自殺率が高い地域の1つと言っていました。

でも1997年、イギリスが香港を中国に渡した後、最初は香港に行く人の人数が制限されていましたが、その制限された人数の中に、当時、香港に脱出する波をつくった人々や、彼等の家族がかなり居ました。

その所謂「共産主義者」たちが、資本主義の国家に行って、言論の自由を享受しながら、自分が中国で貯えてきた財産を使って、思う存分楽しんでいました。

20世紀の終わりに、香港で最もお金持ちの人トップ百人の中の40人以上は、改革開放を前に香港に逃げた難民でした。

その内の1人は冒頭で話ましたワンメディアの創始者ジミー・ライさんです。1950年代後半、未だ10歳だったジミー・ライは、広州の駅で人の荷物を運んで稼いだお金で、自分の兄弟たちを養っていました。

ある日ある香港から来た人が、彼にお金を渡した後に、彼に1枚のチョコレートを渡しました。

ジミー・ライさんが、当時の事を思い出した時に、当時、彼は、そのチョコレートはこの世界にある最も美味しい物と思っていました。だから香港は天国と思い始めました。

2年後、彼は1人でたったの1香港ドルを持って、川を泳いで香港に行きました。普通の雑用から始めて、大きなメディアを作り上げました。

当時、沢山の人が彼と同じ様に、泳いで香港に着いた時は、何も持っていなくて、そこで頑張って、自立する事が出来ました。

彼等は自分が得た自由は永遠に自分のモノと思っていました。中国が1国2制度で香港をコントロールし始めた後、多くの香港人は50年間の時間があれば、香港の素晴らしい制度は大陸の制度に取り替わる可能性もあると思っていました。

でも、その50年間の約束は20数年で破られる事になりました。香港には3つのグループの人が居ると言われています。

1つは最初から香港に住んでいて、イギリスの教育を受けて、イギリスの政治制度に基づいて、物事を進める、考える人なんですね。彼等は自由な世界で生まれ、自由な世界で育てられ、その世界に慣れているから、C〇Pの独裁を簡単に受け入れないんですね。

2つ目のグループは先程皆さんに紹介しました中国大陸から、C〇Pの高圧な統治に耐え切れず、命を賭けて、香港に逃げた人です。彼等は何もない所から自立して、今、何とか良い生活を送れる様になってきました。彼等は誰よりもC〇Pの本当の姿を知っていますので、勿論、C〇Pの香港での独裁を簡単に受け入れる事は出来ないです。

3つ目は彼等の子供たちです。その子供たちは香港の自由な教育システムで育てられて、自分の家族からC〇Pの残虐性を聞きながら成長して、自由の重要性を知っています。

この2年間で香港で起きてきた反対運動の主要戦略はその子供たちになります。だからC〇Pは香港を残して、香港人を残さないという戦略をとっているんですね。何故なら、本当の香港人は反C〇Pだからです。

C〇Pから見て、香港は彼等が唯一コントロールしきれていない中国の領地になりますので、彼等にとって、そこはC〇Pの崩壊に繋がる抜け穴になります。

だから全世界が反対していても、彼等は香港で独裁を進めて、香港を殺そうとしています。何か大きな変化がなければ、C〇Pはまだまだやり続けるのは間違いないです。

当時、大変な時に、中国大陸の人が香港に逃げましたが、でも、今の香港人は、何処に逃げれば良いでしょうか?

最後はジミー・ライさんが言った一言で、今回の話を終わらせます。

「私は当時、何もなしで香港に来た。私が得た全ては、香港がくれたモノになる。だから自分の命で自由に恩返ししたい。」
では、又、次回、お会いしましょう。


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