「原爆に勝ち目無し」と降伏し、その後ソ連が侵攻してきたと習った私にとって衝撃的な話
【日本語字幕】日本が降伏した理由は本当に原爆なのか? | 2013
Harano Times 2022/04/30
皆さん、こんにちは。今回皆さんに紹介する動画は核軍縮に於けるアメリカの専門家ウォード・ウィルソン氏が2013年1月にニューヨークにあるシンクタンク、カーネギー国際関係稟議協議会で行った講演の一部です。
ウィルソン氏は英米安全保障情報議会シニアフェロー、核兵器最高プロジェクトの責任者であり、カリフォルニアにあるモントレー国際大学院内にある核不拡散センターでシニアフェローを務めた経験もあります。
現在は世界中の大学や非政府組織等で講演活動を行っている様です。著書に「核兵器をめぐる5つの神話」があり、日本語訳も出版されています。
その著書の中で彼は、「原爆が太平洋戦争を終わらせたというのは、アメリカ人が信じたい神話であり、当時の戦争主導者やアメリカ政権中枢の人々の証言を検証すると、ソ連による宣戦布告の方が日本が降伏を受け入れる為の決定的な要因だった」と述べています。
正直、私もこの観点を知る迄は、日本が降伏した決定的な要因は原爆だとズッと思っていました。この様な当時のデータや事実に基いた「原爆は決定的な理由ではなかった」という解釈は、かなりインパクトがあるモノでより正しいのではないかとも思ってきています。
このチャンネルを見ている方の中には、当時の日本にとって広島・長崎への原爆投下が無条件降伏を受け入れた直接の理由ではなかったと考えた方もいらっしゃると思います。
しかし敢えてこの動画を紹介した理由は、アメリカを初めとした海外に於いては太平洋戦争に於いて、日本を無条件降伏させる為には広島・長崎へ原爆を落とす事は仕方が無かったと核兵器の使用を正当化する考え方が残念乍ら、未だに常識となっているからです。
太平洋戦争を終わらせたのは原爆ではないという事をメディアに出て語る人を殆ど見た事がありません。そう言った意味で今回の動画は翻訳して残す価値があると思いました。
この見解に納得する方が日本国内で、若しくは海外で議論になった時にも論拠として使って頂けると思います。以前紹介した「日米開戦の真相」という動画も未だ御覧になっていない方は併せてご視聴下さい。
今回の日本語字幕動画は約3分程の短いモノです。日本語字幕動画の後に、原子爆弾の開発から実際にそれが日本に投下され、その後にソ連が日ソ中立条約を破棄して日本へ侵攻する迄の経緯を俯瞰してオサライする為に時系列で簡単に説明します。ではどうぞ。
核兵器は、第二次世界大戦末期に日本にショックを与え、降伏に導いた。
実はそうではありません。
日本が降伏したのは、ソ連が参戦したきたからです。
日本の指導者たちは、
「原爆によって降伏させられた」
と言いました。
しかしそれは
「奇跡の兵器にやられた」と言う方が、
恥かしくなかったからです。
アメリカ人はそれを鵜呑みにし、
「核兵器の神話」が生まれたのです。
事実を見て見ましょう
アメリカは1945年の夏、
68の都市を爆撃しました。
68都市の攻撃に於ける死者数をグラフにすると
広島がダントツ1位であると想像されるでしょう。
その様な印象を与えられているからです。
実の所、広島は2番目です。
通常攻撃による東京の死者数が1位です。
破壊された面積を比較すると、
広島は6番目です。
破壊された面積の割合を比較すると、
広島は17番目です。
つまり攻撃手段は考慮せず
「攻撃による被害」という点で見ると、
広島の被害が例外的なものでなかった事は
明らかです。
日本中で夏の間中ズッと
続けられた空襲と大差なかったワケです
広島の原爆は、
軍事的な決定的ではなかったという事です
一方、ソ連による宣戦布告は
日本の戦略事情を根本的に
変えてしまいました。
もう1つの大国による参戦は
日本の指導者にとって軍事的に
解決不可能な問題を引き起こしました。
1つの方向から攻めて来る大国に
対抗する事は可能かもしれないが、
2つの方向から攻めて来る大国に
対抗する事は誰が考えても無理でした。
ソ連による宣戦布告は決定打になりましたが
広島の原爆はそうなりませんでした
広島に原爆が投下された後も
日本兵は海辺に塹壕を掘っていました
彼らは未だ戦う気満々だったのです
日本は夏の間ズッと
平均すると1日置きに1都市を
失い続けていたのです。
広島の原爆投下は軍事的決定打には
なりませんでしたが、
ソ連の参戦は決定打でした。
日本の指導者たちは、ソ連の動向を
戦略的に決定的な要因として認識し、
そう言っていました。
戦争に於ける方針を協議する
6月の最高会議では
「ソ連の参戦が帝国の運命を決める」
と発言されています。
河辺虎四郎(陸軍中将)は、
「日ソ間の絶対的な平和維持が
戦争継続の為の基本的条件の1つだ」
と述べています。
日本の指導者たちが
「広島の原爆によって降伏させられた」
と言ったのは、戦争に負けた事の
良い口実になると思ったからです。
しかし事実は広島が日本を降伏に
追い込んだのでは無い事を示しています
もし核兵器(の抑止力)が
「宗教」だとすると、
ヒロシマは最初の「奇跡」です。
「奇跡」が偽りであると判明した時、
私たちはその「宗教」を
どう捉えたら良いのでしょうか?
「核兵器が日本にショックを与えて
降伏へ導いた」と言われていますが、
実はそうではありません。
実はそうではありません。
日本が降伏したのは、ソ連が参戦したきたからです。
日本の指導者たちは、
「原爆によって降伏させられた」
と言いました。
しかしそれは
「奇跡の兵器にやられた」と言う方が、
恥かしくなかったからです。
アメリカ人はそれを鵜呑みにし、
「核兵器の神話」が生まれたのです。
事実を見て見ましょう
アメリカは1945年の夏、
68の都市を爆撃しました。
68都市の攻撃に於ける死者数をグラフにすると
広島がダントツ1位であると想像されるでしょう。
その様な印象を与えられているからです。
実の所、広島は2番目です。
通常攻撃による東京の死者数が1位です。
破壊された面積を比較すると、
広島は6番目です。
破壊された面積の割合を比較すると、
広島は17番目です。
つまり攻撃手段は考慮せず
「攻撃による被害」という点で見ると、
広島の被害が例外的なものでなかった事は
明らかです。
日本中で夏の間中ズッと
続けられた空襲と大差なかったワケです
広島の原爆は、
軍事的な決定的ではなかったという事です
一方、ソ連による宣戦布告は
日本の戦略事情を根本的に
変えてしまいました。
もう1つの大国による参戦は
日本の指導者にとって軍事的に
解決不可能な問題を引き起こしました。
1つの方向から攻めて来る大国に
対抗する事は可能かもしれないが、
2つの方向から攻めて来る大国に
対抗する事は誰が考えても無理でした。
ソ連による宣戦布告は決定打になりましたが
広島の原爆はそうなりませんでした
広島に原爆が投下された後も
日本兵は海辺に塹壕を掘っていました
彼らは未だ戦う気満々だったのです
日本は夏の間ズッと
平均すると1日置きに1都市を
失い続けていたのです。
広島の原爆投下は軍事的決定打には
なりませんでしたが、
ソ連の参戦は決定打でした。
日本の指導者たちは、ソ連の動向を
戦略的に決定的な要因として認識し、
そう言っていました。
戦争に於ける方針を協議する
6月の最高会議では
「ソ連の参戦が帝国の運命を決める」
と発言されています。
河辺虎四郎(陸軍中将)は、
「日ソ間の絶対的な平和維持が
戦争継続の為の基本的条件の1つだ」
と述べています。
日本の指導者たちが
「広島の原爆によって降伏させられた」
と言ったのは、戦争に負けた事の
良い口実になると思ったからです。
しかし事実は広島が日本を降伏に
追い込んだのでは無い事を示しています
もし核兵器(の抑止力)が
「宗教」だとすると、
ヒロシマは最初の「奇跡」です。
「奇跡」が偽りであると判明した時、
私たちはその「宗教」を
どう捉えたら良いのでしょうか?
「核兵器が日本にショックを与えて
降伏へ導いた」と言われていますが、
実はそうではありません。
原子爆弾の開発からソ連による侵攻迄の流れを簡単にオサライします。
1939年
ドイツが原爆開発の為の実験を開始
同年
ナチスドイツが先に核兵器を保有する事を恐れたドイツからの亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りて、ルーズベルト大統領に信書を送った
1942年10月
ルーズベルト大統領は核兵器開発プロジェクトを承認した
1945年2月
ヤルタ会談(ヤルタ密約)
ドイツの降伏後2~3ヶ月以内に「日ソ中立条約」を破棄し、ソビエトが日本領土に侵攻するという密約をした
3月
連合国の調査により、ドイツが原爆の開発を中止した事が確認された
4月30日
アドルフ・ヒトラー自殺
5月7日
ドイツが降伏文書に調印
6月11日
フランク・レポート
アメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人物理学者ジェイムス・フランクら7人の科学者による委員会が大統領の指紋員会に報告書を提出した
報告書では、日本に対する原子爆弾の無警告での使用に反対していたが、その提言は拒絶された
7月16日
人類最初の核実験(トリニティ実験)が成功
トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、同型の爆弾「ファットマン」が後に日本の長崎に投下された
7月26日
ポツダム宣言がイギリス、アメリカ、中華民国の名に於いて、日本に対して発布された
8月6日
広島に原爆投下
広島市に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は核分裂物質としてウラン235が使われていた
このタイプの原子爆弾は核実験が行われていなかったが、爆縮型の原爆に比べて構造が遥かに単純な為、ほぼ間違いなく正常に作動すると予想されていた
又、大量のウラン235を必要とする事から、この時点で爆弾1発分しか生産出来ていなかった(実質的に広島が「初実験」の場となった)
8月9日
長崎に投下
トリニティ実験でテストされたのと同じ爆縮型タイプのプルトニウム爆弾「ファットマン」
8月9日
ソ連軍、満州侵攻開始
8月14日
日本はポツダム宣言を受諾し、連合国側へ通告
8月15日
日本国民に敗戦が発表された(玉音放送)
8月18日
ソ連軍、千島列島上陸作戦開始
8月29日
ソ連軍、択捉島を占領
9月2日
日本の降伏文書が調印された
9月1日~4日
ソ連軍、国後島、色丹島を占領
9月3日~5日
ソ連軍、歯舞群島を占領
9月5日
ソ連軍、一方的な戦闘攻撃をようやく停止
これからもこの様な話をしていきますので、ご興味のある方は、是非、フォロー、コメント、拡散をお願いします。又、このチャンネルを応援して頂ける方は、是非、メンバーシップもご検討下さい。では、又、次回、お会いしましょう。HaranoTimesがお届けしました。
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